あれから30年
(阪神・淡路大震災の記憶―前編)
昭和41年卒 古賀 大生
2025年5月10日掲載
昭和41年卒 古賀 大生
2025年5月10日掲載
30年前(1995年)の1月15日、河内長野駅近くの国道を走行中、赤信号で停まった前の横断歩道を、成人式に着飾った華やかな若い男女達が通り過ぎるのを見ながら、「ああそう言えば、今日は成人式だったか!」自分の成人式の頃が頭の中をよぎった。
私の故郷豊津町では、成人式などを町で執り行われるはずもなく、大学の体育館で近くの女子大との合同成人式があった事が甘酸っぱい思い出と共に蘇って来た。その中には、憧れたり憧れられたりの方もいた。
そんな事を考えながら我が家に着き、いつもの和やかな家族揃っての夕餉の後、風呂に入って冷たい布団に潜り込んだ。
その夜は、天井裏で何かがカサコソと動き回っている様な音がした事を不思議に感じた。
新築後10年経った家で、今までには無かった物音なのでよく覚えている。
それから2日後の朝まだき、背中がドンッと突き上げられ、次に天井がぐるぐる回り始めた。屋根の上では瓦どうしがガチャガチャと軋む音がし、非常に長い間家が揺り回されていたような感じがしたが、気が付けば私は13歳の長男の上に、家内は10歳の長女の上に覆い被さっていた。
寝室の出口の横の壁に立て掛けていたガラス扉付きの本棚が、すごい音がして倒れ、ガラスが割れ飛び散る音が聞こえた。揺れが落ち着いたので、ガラスの破片に気を付けながら階段を下り、リビングルームに入って電気を付けると、アップライトピアノが壁より50cmほど前に動き、テレビ台の上のテレビは壁側に斜めに倒れかかっていた。台所の食器棚はといえば、不安定な食器やガラス器はガラス扉側に倒れ込んでおり、扉を開けるとなだれ落ちてきそうな状態であった。
散らかった家を片付け、取り敢えずの朝食を済ませ、会社に行く用意をしながらテレビを付けると、震源地は神戸付近で震度6(後に観測史上最大の震度7に変更された)、三宮界隈では何件ものビルが傾いたり倒れたりし、神戸の西の方では火災が何カ所も発生しているとのこと。関西の公共交通機関は軒並み不通で、私が通勤で使っている南海電車高野線は全線不通、開通の見込みは立たないとの事であった。
河内長野から阿部野橋に通ずる近鉄長野線は動いているらしいと言うニュースが入り、家内に河内長野駅まで車で送ってもらい、とにかく大阪市内に行くしか無いと思い、家を出た。近鉄電車、地下鉄ともに徐行運転であったが、何とか会社のある本町に着いたのは午後3時を回っていた。
私の会社は設計部だけが別の新築ビルに移転しており、私の部署は18階建ての6階部分にあり、半分はガラススクリーンで仕切られた図書室があった。フロアに入り、まず目に付いたのは図書室の惨状であった。書架という書架が斜めに倒れかかり、何万冊もある膨大な書籍が床にばら撒かれていた。
上司の声が飛んだ・・・
「皆、本の片付けを手伝いたいのは分かるが、プロに任せるから手を出さないように!」
自分の机の周りも悲惨な状況であった。片付け下手な私の、机の周りに積み上げられた書類や本、建築材料の見本などが一間四方にばら撒かれていた。
夕方までかけて身の回りを片付けていると、上司から梅田近辺のビルの被害を調べて来てくれとの話があり、自分がタッチしたビルを中心に、他のビルの外観などを調査して回ったが、ガラスが割れたり、外壁が剥がれ落ちて地面に散乱している古いビルは何カ所かあったが、建物自体が致命的な被害を受けているものは無かった。
翌日、まだ不規則運転の公共機関で1時間以上遅れて出勤すると、上司から三宮にある神戸支店に行き、神戸の被害を確認して来て欲しいと言われた。
スマホなど無い時代に、ラジオやテレビ、支店間の電話連絡などで情報を集めた結果、JRと阪急電車は全線不通、阪神電車は梅田から青木(オオギ)までが運行、それ以西は不通だと分かった。現場用作業着に着替え、会社のリュックにヘルメット、安全靴、水などの最低限の品物を詰め、一路阪神電車に向かったのは昼前であった。
電車に乗ると、結構な乗客の数で、皆押し黙った深刻な表情の方が多かった。中には水や食料品などが入っていそうな大きな荷物を抱えている方も何人かいた。徐行運転を繰り返しながら普通なら30分のところを1時間以上かかって青木に着いた。青木に着くまでに、沿線の住宅などが全壊したり、一階の柱が座屈し倒壊しかかっているマンションなどを目の当たりにしたので、心の整理は付いていたが、青木から三宮までの約10kmの国道2号線は今まで見たことの無い惨状であった。
至る所で倒壊した木造住宅が歩道を塞ぎ、車道側に大きく迂回しながら波の様にうねった道を進み、三宮の神戸支店にたどり着いたのはほとんど5時前後であった。
神戸支店界隈は、半壊したり、一階周りの柱が座屈し今にも倒壊しかかっているビルが何軒もあったり、砂埃が舞う中を血走った目をした人々がせわしなく行き交い、救急車やパトカーが走り回る混沌とした世界であった。
すでに暗くなりつつあり、支店から本社に今から帰る旨の連絡を入れ、同じルートを大阪方面に向かった。3時間ほどかかり大阪に戻り、地下鉄に乗り込むと、何事も無かった様ないつもの通勤風景で、神戸と全く違う世界が周りにある事に一種の虚無感を覚えた。
明くる日出勤すると、神戸支店への地震復旧応援に行けとの辞令が出ていた。次の日から大阪港の天保山埠頭から神戸ポートターミナルへ毎日チャーター船が出ることになっており、その船で通えとの事であった。その後の神戸支店勤務の一ヶ月間で、あらゆる悲惨な状況に接し、今まで味わった事が無い経験をすることになる。
・・・・(後編に続く)