同窓会活動に未来はあるのか?
ホームページ編集部
2025年6月10日掲載
ホームページ編集部
2025年6月10日掲載
少子高齢化の影響もあってか、最近では、自治会や町内会などの地域に根ざした活動への参加者も減少の一途をたどり、廃止されるところも少なくないようだ。
では、同窓会はどうなのかと言うと、関西錦陵会に限って言えば、やはり、決して明るい未来が待っているとは言えない。自分を含めて、これまで中心になって参加していた世代もやがては退場していく。しかし、それに代わる新しい世代が入って来ない。これでは、会が発展するわけもなく、そう遠くない将来、廃止に追い込まれるのは明らかである。
そこには、自治会や町内会と共通した要因もあることはあるが、「同窓会」という組織ならではの特殊性もある。
その特殊性とは何か?
ざっくり集約すると、下の3つくらいになるのではないかと思う。
1.同じ母校を持つ集団である
2.なつかしさを感じあう集団である
3.これまでの人生の発表会である
では、1つずつ、分析してみることにしよう。
同じ母校を持つ集団
「同じ学校を卒業した」ということは、「同じ故郷を持つ」ということでもあり、それだけでも、気心知れた安心感や快適さがある。とくに、田舎の学校を卒業して都会に出て人生を築いてきたという人間であれば、その想いはひとしおである。
しかし、物事には表裏一体でプラス面とマイナス面が必ずある。「同じ母校を持つ集団」の裏にあるマイナス面は
共通点がそれしかない
ということである。
「母校」が同じであれば、生まれ育った地理的環境や校風などが多少は発想や考え方に影響しているところがあるだろう。しかし、卒業後の人生のほうがいずれ長くなっていくわけであるから、果たして、そこに、「共通点」としての重みがどれだけあるかは疑問である。
つまり、母校が同じだけで、その集団には、共通の目的も共有する思想もないのである。
もっとも、会則には、「会員相互の親睦を図り母校・郷土の発展に貢献する」という目的がうたわれてはいるが、存続自体が危ぶまれている時代に、「親睦を図る」や「母校・郷土への貢献」だけで会を牽引していくことができるのかという懸念がある。
「親睦」とは言い換えれば「遊び」である。もちろん、「遊び」がムダとは言わない。しかし、たまに集まるくらいはするかもしれないが、参加してもしなくてもどうということはないという位置づけになるかもしれない。
「母校・郷土の発展に貢献」も具体的に何をどう貢献するのか、どこまで、真剣に考えるべきかということになる。まともに考えると、自分自身の生活も大変なのにそんな余裕があるのかと思う人もいるかもしれない。
これは、関西錦陵会だけではなく、どこの同窓会も同じような目的を定めていると思われる。つまり、「同窓会」とはそれでいいのだ、それ以上の目的を持たせてどうするのかという議論はあるだろう。
しかし、そうだとすれば、やはり「たかが同窓会」の域を出ないわけで、将来に向けて持続可能な会になりうるはずはない。
なつかしさを感じあう集団
次の、「なつかしさを感じあう集団」であるが、「なつかしさ」とは、自分のルーツを確認し故郷を想うあまずっぱい感情である。こういった感情を抱くことができるのは、精神的に豊かで、余裕がある状況だからであるとも言える。
人間、生きていくうえでときどき来し方を振り返るのは悪いことではない。それがまた、前に進むエネルギー源にもなる。
しかし、それは一時の感情であり、毎日、「なつかしい」ばかり想って生きるわけにはいかない。よって、会の牽引力にするにはちょっと弱い。そこには、個々の会員にとって、今の自分や将来の自分に即、役に立つという「実質的」なメリットがない。
これまでの人生の発表会
何十年かぶりに、同窓会に出れば、「どうしてたん?今なにしてるの?」、「いや実はね…」などと会話が続く。「卒業後のそれぞれの人生について語り合おう」などと言えば聞こえはいいが、実際にはそんなきれいごとでは済まない。同窓会において、いちばんやっかいなのはここである。それは
ある程度成功している者しか来ない
からである。
「成功していないと来れない」といった規則があるわけでもない。しかし、今の自分の境遇に満足していない人にとって、同窓会に参加することは苦痛でしかないこともある。
「自慢するな」というルールでも設けないかぎり、人は自慢するものだ。だれしも承認願望がある。世間一般で大っぴらに自慢するのはカッコ悪いが、同窓会なら許される(なぜなら故郷に錦を飾っているから)という暗黙の了解もあるかもしれない。意識的にやっている者もいるだろうし、無意識でやっている者もいるかもしれない。
ちなみに、昨年、大学のクラブの同窓会に参加して驚いた。卒業後一度も集まったことがなかっただけに言いたいことも山積みだったのだろうが、一人3分程度の時間配分にもかかわらず、一人5分とか(最悪10分とか)、「自分の人生談義」のアピールが続いた。
まあ、それはそれでおもしろい部分もあるのだが、ちょっと経歴紹介もお腹いっぱいになってきたので、自分の順番が回ってきたときには、実家での「アライグマとの格闘話」をしてやった。「アイツ、可哀そうに」と憐れみを買ったかもしれないが、知ったこっちゃない。もちろん、私にだって、自慢話の一つや二つはある。しかし、自分の自慢話が果たして相手にとってどれだけおもしろいかと考えると疑問である。
その点、関西錦陵会は、謙虚な人が多いのか、自分の自慢話は少ないようである。自分の経歴などはさらっと自己紹介で述べる程度で、「みんなより優位に立つ」というのではなく、「みんなが楽しめる」という視点が存在しているからだろう。
しかし、それでもやはり、今の自分に自信が持てない人は参加しない。ただでさえ自信を無くしているところに、成功した人の姿を見てますます自分への失望感をつのらせることになるからだ。
「大丈夫、みんな似たり寄ったりやで」などという下手な励ましが通用しないのは言うまでもない。
以上、「同窓会の未来はあるのか?」という問いかけに対して、否定的な要素ばかりを述べることになってしまったが、要は、ここからスタートしなければいけないのではないかと思うのである。
こういったマイナス要素をどう解決するか?「解決」できなければどう「処理」するか?そこから議論しなければならないと思う。
ちなみに、私自身は、「関西錦陵会の未来はある」と信じている。